・・・秋月行事・・・テレビ出演1・・・テレビ・ラジオ出演2・・・
・・・旅の記録・ろまんの道記録・・・
上記のページをクリックしてください↑
秋月案内
|
秋月のシンボル 黒門
黒門は秋月城の側にある。春は桜、秋は紅葉で賑わう秋月のメイン的存在でる。 秋月に来て、黒門を見ず帰ることなかれ と言われるほど? この黒門は、江戸時代以前の秋月城入口の搦め手門であった。それを黒田の時代 になって運んできた。黒門の奥には垂裕神社があり、黒田の初代藩主 黒田長興公 が祭られている 周りには、他では見れない楠や雑木の巨木があり、秋は見事に色をつける。 |
|
時櫓から見た秋月の町の風景
手前は武家屋敷跡久野邸、遠くに秋月城跡に建つ中学校がある。時櫓を更に歩く と、秋月氏時代の出城福嶽城跡がある。山の尾根から秋月全部を見渡せる絶景の 地である。 秋月は辺境の地にありながら、全盛時代は30万石以上の石高を持ち、他藩より恐 れられる存在であった。遠き昔の話である。 |
|
中央が黒田長興の墓 1610年〜1665年
黒田長政の三男として生まれる。長興が文武に優れ人格者であった為、長政は福 岡本藩の藩主にしたい思いがあったという。長興は5万石の小藩ながら、一国一 城の主として独立体制を確立した。 長興は15歳にして秋月の藩主になるが、本藩の忠之はこれを認めようとせず、 長興の将軍拝見を阻止しようとした。この時の家老が堀平右衛門で、彼の胆力と 策略で、秋月を完全独立藩とすることが出来た。 古心寺には、この他歴代の藩主と側室のお墓がならんでいる。 |
|
秋月居城の外堀
江戸時代以前は、古処山の頂上に秋月城があった。当時の藩主秋月種実は、その 山城を難攻不落の城とし、豊臣秀吉に戦いを望んだが、三日も持たず降伏した。 その後江戸時代は、一国一城になり、また戦いの為の城ではなく」、行政を司る ための居城となった。その為堀は小さく、戦いに向かいない城となっている。側 に長屋門、黒門、杉の馬場があり、観光の中心になっている。 |
月見坂 江戸時代、若き藩士達が月見をした と云う坂道。左側は田代邸。 |
腹切り岩 恵利暢堯は主君秋月種実を諌める 為妻子と共この岩の上で切腹した。 |
秋月橋 野鳥川に掛かる橋、興善橋とも言 う。大きな石を敷き詰めた風情の ある河原である。 |
秀都橋(ひでいちはし) 目の悪い按摩さんが、寄贈して作っ たと言う橋。 |
臼井六郎の墓 左側 日本最後の仇討をした秋月の英雄 テレビ化され有名になった。 |
豊臣秀吉が腰掛けた石 伝説 秀吉は秋月征伐の為、3日この地に 滞在した。その時の話であろう。 |
大涼寺 | 淨覚寺 | 長生寺 |